LA VERDA GEMO

エスペラント、日本語、そして……

石川尚志

 エスペラント(以下E-o)と日本語にはどんな共通性があるだろうか?もちろん、どちらも人間の言語だから、同一の事象や感情を表現する働きがある。だがこれから問題にしようとするのは、英独仏のようなよく知られた現代の有力な言語(主として印欧語族)にはあまり見られない特徴が、エス語と日本語の間に存在し、そしてそれが言語の本質や起源にまでつながっているのではないかということだ。

 E-oは文法・語彙の90%以上を印欧語族から借りているが、計画言語なので言語系統論上、エス語が印欧語族に属するとはいえないようだし、日本語をモンゴル語や朝鮮語のようなアルタイ語族に含めるかどうかは別として、互いに遠い存在であることは明らかである。

 類型論からいえば、日本語もE-oもトルコ語などと同様に膠着語に分類され、中国語やベトナム語のような孤立語、ラテン語、ドイツ語、ロシア語のような屈折語と対比させられるが(J.Wells, Lingvistikaj Aspektoj de Esperanto)それだけの話で、そこからなにかが引き出される訳ではない。

 音韻については、E-oも日本語も母音が5個であって、英、独、仏、中国語、韓国語などの発音に悩まされる日本人にとっては有難いが、ザメンホフが学んだロシア語、ラテン語、ヘブライ語なども5母音ということなので格別な意義はない。

 以下で私は、「中動態」と「主語無し文」という二つの概念によって日本語とE-oを対比させ、そこから何が見えるかを探ってみたい。私の議論は、主として(多くは日本の)言語学者や哲学者の記述に基づき、E-oに当てはめているが、もとより私は言語学も哲学も正式に学んだことがなく、単なるつまみ食いなので、とんでもない誤読や誤解、牽強付会があるかもしれないことをお断りしておく。

 早速、中動態の検討に進もう。中動態は、現代の印欧語族にはほとんどみられないが、日語とエス語ではありふれた表現であり、対応する表現が多い。

Taro rompis la tason. 能動態 太郎が 茶碗を壊した。
La taso estis rompita de Taro. 受動態 茶碗が 太郎に壊された。
La taso rompiĝis. 中動態  茶碗が 壊れた。
E:Mi naskiĝis en Tokio. 中動態 私は東京で生まれた。
英: I was born in Tokyo. 受動態
独: Ich bin in Tokyo geboren. 受動態

人の生誕は、日、エス共に中動態で表現(というか、中動態でのみ表現)するが、英独仏などは受動態でしか表現できない。別の例を見てみよう。

E: La libro vendiĝas bone. 中動態(自動詞) その本はよく売れる。
独: Das Buch verkauft sich gut. 再帰形(他動詞)
仏: Le livre se vend bien. 再帰形(他動詞)  
英: The book sells well. 中動態?(自動詞)
露: Kнига продается хорошо. 中動態(自動詞)

独、仏、伊、西のような多くの印欧語では、他動詞を使った再帰形でしか、表現できないが、中動態がロシア語には存在し、英語にもわずかにあるといわれる。E-oでも、La libro vendas sin bone. という言い方も文法的に可能だろうが、中動態の方が、形の上でもすっきりしている。

 では、いよいよ中動態の正体を見ていこう。次の二文を比較されたい。

1. Mi naĝis en maro.
2. Mi naskiĝis en Tokio.

どちらの文も、単純な《主語+自動詞+補語》構文である。しかし、決定的な違いがある。1. の動詞は主語の行為を表しているが、2. の動詞は主語の行為ではない、ということだ。先にあげた例文La taso rompiĝis. La libro vendiĝas bone.においても文法上の主語は行為者ではない。E-o話者は無意識に中動態を使っていることが多いが、単なる自動詞文と中動態の自動詞文を見分けるには、その動詞が主語の動作かどうかをみればよい。さらに具体的に見てみよう。Ulrich Lins, ”La Danĝera Lingvo”の271ページにこんな話が出てくる。ある男が作家、ゴリキーに無礼な手紙を出したという嫌疑で逮捕されたが、”En septembro de kuranta jaro mi liberiĝis kaj revenis hejmen.”という。

彼が自由の身になったということは、自分の行為で自由になったのではなく(脱獄しない限り)、官憲によって釈放されたのである。つまるところ、中動態文のLa taso, la libro, Mi, miなどは、形式的には主語であっても実態は文中には現れない第三者の行為の目的語だったりする。

 さらに重要なことは、中動態の文は、「主語の行為」を表すのではなく、「主語に生じた事態、状態の変化」を表すのだ、ということである。主語は、出来事が起こる場所なのである。今まで上げた例を検討すれば、それが当てはまることはすぐわかると思うが念のためもう一つ例をあげる。

Mi amas ŝin.というのは、愛しているという状態を示しているので、そうなるに至った始めはどう表現するか。

E: Mi enamiĝis al ŝi. 私は彼女との恋に落ちた。
英: I fell in love with her.
仏: Je suis tombé amoureux d’elle.

恋という事象は、「私はこれから彼女を愛するぞ」というように意思的行為によって起るのではないので、ekamis ŝinではなくenamiĝis al ŝi の方が適切だろう。E-o、英、仏、日語、皆、落とし穴に落ちるように、あるいはKupidoの矢に射られるように、意図せずそういう状態に陥る。私という場所にそういう事態が生じたということだ。恋というのは中動態的事象なのである。

 先にあげたLins“La Danĝera Lingvo”には中動態表現が頻出するが、Lins氏は意図的に中動態を多用しているとは思われないが、そこで使われている自動詞をすこし、アットランダムに上げてみよう。

mildiĝi, kreiĝi, kaptiĝi, plioftiĝi, forgesiĝi, paĉiĝi, estingiĝi, sciiĝi, tiriĝi, vidiĝi, kaptiĝi, ligiĝi, sentiĝi, ĝeniĝi, detruiĝi, trarompiĝi, implikiĝi, diskoniĝi, ktp.

これらの自動詞からどのような文ができるか、読者の皆さん、試して下さい。

例文の紹介と分析だけで中動態の定義と、文法的検討は次回のお楽しみに。

                              ― 続くー