LA VERDA GEMO

エスペラント、日本語、そして……
-その2-

-その1-

石川尚志

 前号で、中動態の文は「主語の行為」を表すのではなく、「主語に生じた事態、状態の変化」を表すのであって、文法上の主語は、出来事が起こる場所を示すのみ、と書いた。中動態の本質についての議論は、言語学者、金谷武洋氏に依拠している。氏の『日本語と西欧語』(講談社学術文庫)p.227に「印欧古語には、行為者を全面に打ち出す能動相と対立する文法カテゴリーとして中動相があった。その機能は行為者の不在、自然の勢いの表現」とあり、中動相は「印欧語における無主語文」ともいう。私は、金谷氏の定義を古語だけでなく現代語にも適用するため、「自然の勢い」に加えて「第三者の行為」を加え、「行為者の不在、第三者の行為を含む自然の勢いの表現」としたい。

 金谷氏はカナダで言語学を研究し日本語を教える過程で、日本語に主語はいらない、と主張する三上章の文法の合理性・有用性に気づいた。そして、主語の不在という現象は日本語に特有なものではなく、サンスクリット、古典ギリシャ語のような古典語でも、中世英語などもそうだったと論じている。氏はそこから出発して、文法学者の間で議論の決着がついていない中動相(中動態)の問題を、バンヴェニスト、ギョーム、細江逸記等の議論を批判的に検討して解決を導いた。このように私は理解しているが、三上文法自体、日本の国語学者の多数に受け入れられてはいないし、金谷氏の中動態論も言語学者には評価されていないように見える。また、金谷氏はエスペラント(E-o)にはまったく言及していないので、中動態とE-oの関係は、まったく私の創見(aŭ非創見aŭ皮相見?)になる。

 日本語における主語の問題について、中動態から話がそれるが触れておきたい。上司が部下に「この仕事、やってくれないか?」と頼んだとする。肯定的な答えとして、「やります」「私がやります」「私はやります」という三つの答えがありうる。意味は微妙に違う。「やります」には特別な含みはないが、「私はやります」というと、「他の人はどうであれ私はやる」という意味だし、「私がやります」だと「他の人を差し置いても自分がやりたい」というニュアンスである。それぞれ意味は違い、代替性はなく、「やります」はこれで完全な文であり、後二者の省略形ということはない。また、助詞の「は」「が」は主格を示すとは限らない。例えば、「子供は寝かせたか?」「学校は行った?」「ラーメンが食いたい」などを考えれば分かるように、「子供」「学校」「ラーメン」は目的であり、ここでの「は」「が」は主題を示している。

 国語文法が明治以来、英語文法(近代印欧語文法)の影響を受けて、主語必要論が主流となっているようだ。また後に見るように、西欧人のE-o文法家たちは、主語の存在を前提としていて、それが中動態の理解の妨げになっていると思われる。

 では、具体的にE-o文法のなかで中動態がどのように扱われているかを見てみよう。K.Kalocsay-G.Waringhienによる文法書、Plena Analiza Gramatiko de Esperanto (PAG)が、中動態についても最も体系的、詳細に論じている。他の論者はPAGを下敷きにしており、例文も説明もほとんど同じである。
PAGは言う。

La mediala voĉo, esprimata per iĝi, unuigas en si propre la aktivon kaj la pasivon: la subjekto estas samtempe ankaŭ la objekto de la ago: ĝi faras la agon pri si mem. PAG, p.166.

つまり、中動態は能動態と受動態の合一で、そこでは主語は同時に目的語であり自己に対して行為する、ということである。それでは、前回に見た動詞の再帰形とどう違うのか、ということになる。PAGは再帰形(refleksivo)は、自発的意思による行為であり、中動態の行為は自発的・意識的でない行為であるという(PAG,p.276)。Mi naskiĝis en Tokio.も無意識的な私の行為というわけだ。かなり無理な説明ではないか。そもそもPAGの著者をはじめととするE-o文法家は、naskiĝiやnimiĝiなど私が前回にあげた動詞を中動態動詞として意識しているかも怪しい。彼らが取り上げるのは、

 La ŝtono ruliĝas.
 Ne ĉiam per aĝo mezuriĝas saĝo(Z).
 Ŝi sidiĝis sur la kanapo.
 La ŝipeto turniĝis ĉirkaŭ si mem (Z).
 Li volviĝis en sian mantelon.

などであり、3,4,5番目の例などは、金谷(石川)的観点からは中動態とみなすことはできそうもない。
PAGやその他の論者は、以下は中動態ではないとするが、

 La bildo pentriĝas.
 Li laŭdiĝas.

次の例は、本来ダメだが慣用的に使われているから許容するという。

 La libro legiĝas facile. (La libro vendiĝas bone.と同じだ!)
 Akre desegniĝas la kontruo de domo.

 どうしてこのような混乱が起きるのか?それはそもそもPAGなどの論者が採用している定義が怪しいのであり、その怪しさは彼らの言語観、ひいては世界観の根底にある「S-Vのドグマ」(これは私の用語)からきていると私は睨んでいる。次号以降で説明を試みるつもりだが、話が哲学的もしくはMEGALOMANIA的になってゆくかもしれません。質問、批判を歓迎します。