LA VERDA GEMO

長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その3

その2

Sanjo

 1975年にイギリスから帰国後は、また東京で就職し、普通の生活をしていたが、翌年春たまたま朝日新聞で「エスペラント講習会」の文字を目にした。それは池袋エスペラント会の講習会案内だった。当時は都内各所にエスペラント会があり、それぞれが講習会を行っていた。会場が住まいから近かったことと、せっかく始めたエスペラントをもっとやりたいと思い、初日からではなかったが、参加を決めた。

 当時の池袋エスペラント会には、「三羽ガラス」と言われた林健、森田健夫、梅田節子の3人に加え、若い人がたくさん集まり、とても活発に活動していた。ベトナム戦争をテーマにした早乙女勝元の「ベトナムのダーちゃん」のエスペラント訳本を出版し、かなり売れてもいた。毎週の例会は、入門講習クラスと中級者クラスに分かれ、私は以前に学習経験があるということで、中級者クラスに入った。gvidantoは森田さんだったと思う。教材は、今でもよく使われている”Paŝoj al plena posedo”とか読み物などで、けっこうまじめに勉強した。林さんは、よくエスペラント文学の話題に触れ、特にハンガリーの作家についていろいろな話を聞かせてくれた。彼は、何にも知らないわたしたちエスペラント初心者にとって知識の宝庫だった。自らもHans Jasikのペンネームで、エスペラント版ポルノ小説をたくさん書いたり、ちょっとユニークなおじさんだった。梅田さんは、すてきな声の持ち主で、エスペラントを上手に話した。こういう会の雰囲気が気に入って、いつの間にか私も池袋エスペラント会の一員になっていた。

 もう一つ、その頃の池袋エスペラント会で特徴的だったことは、会員同士で結婚したカップルが3組もあったこと。その3組目がなんと私と尚志なのです!尚志は、若い頃にエスペラントをちょっとやったことはあるが、ほとんど覚えていないということで、1976年春の池袋の入門クラスに入り、その後会に入会。今では想像できないかもしれないが、当時は若い男女会員が何人もいて、ほんとに楽しかった。全国合宿も行われており、そこで仲良くなるカップルもたくさんいたので、esperanto=edzperantoなどといわれたくらい。私たちもそういう雰囲気に押されたのかな?いつの間にか結婚することになったのが1977年末のことだった。林健さんがお仲人役を引き受けてくれた。

 結婚後1年は千葉市(検見川)に、その後は南千住に転居したが、池袋エスペラント会に通い続けた。そのころ入会してきたのが、当時早大生だった河元寛視さんと向後千春(早大教授)さん。彼らとはピクニックに行ったり、歌を歌ったり、学習したりと楽しい思い出がある。外国人エスぺランティストの例会への来訪も多かった。そのころは私も大分エスペラントがしゃべれるようになり、案内役をしたりお世話役をすることも多くなっていった。池袋エスペラント会には来訪しないが、東京に来る外国人エスぺランティストはけっこういて、南千住に移ってからは何人かをお泊めすることもあり、登録はしていなかったがpasporta servo的なことをよくやった。エスぺランティストもさまざまで、イスラエルの男性を上野のお花見に連れていったときの彼の視線は、まるでスパイのそれのように感じた。(映画の見過ぎ?)

 ユーゴスラビア(現クロアチア)の、私と同年代のZdravkaは、その後カナダ人エスぺランティストと結婚して、昨年のモントリオール世界大会ではLKKとして活躍していた。何十年もたってから、その人が元気で活躍するのを見られるのは狭いエスペラント界のお陰でもあり、うれしいことでもある。日本人エスぺランティストも来た。名古屋の三石清という人は、地元のテレビ番組「日雇い労働者の学者・三石清さん」として取り上げられたエスペラント活動の実践者で、「私の大学はエスペラントだった」との名言を残した。ランニングシャツ姿で、ハンガリーの詩人であり、ハンガリー革命における重要人物とされているペテーフィ・シャーンドルについて話してくれたのが印象に残っている。(続く)