LA VERDA GEMO

エスペラント、日本語、そして… ―その3―

石川尚志

 前号では、PAGなどの中動態に対する定義が混迷している背景に特定の言語観、S-Vのドグマがあると指摘した。S-Vのドグマとは何かを見てゆこう。
日本語で一番短い会話として取り上げられる例で、青森地方で話される会話がある。路で行き合った知人同士の会話である。
 A:どさ? - Kien?
 B:えさ。/ゆさ。- Hejmen /Banejon.
これで十分意思疎通ができている。対応するE-oも過不足ないではないか。別に主語や動詞が省略されていると考えなくてもよい。会話が短い理由として、吹雪の中などで、口を開いてお喋りしてると雪が入ってくるので、それを避けるため会話が最小限になる、などという説明もあるらしい。言語学者によれば古い印欧語(ギリシャ語、サンスクリットなど)には、日本語も同様だが、動詞の活用もなく、主語などもなかった。主語、述語、目的語などに関する基本的考え方は、12~13世紀に形成されたという。西暦1100年以前の古英語には主語はなかったが、現代の英語では必ず主語が必要とされIt rains.、It seems to me. のように形式主語(dummy subject、金谷氏によれば馬鹿主語)を持ってこなければならない。

 主語が必須とされる言語は、一説によれば、英、仏、独、ロマンシュ語(スイス)、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語のみで、その他ユーラシア、アメリカ、オセアニアを問わず圧倒的多数の言語は必ずしも主語を必要としないという。もちろんエスペラントでも主語は必須ではない。だから主語を必要とするほんの一握りの言語を標準にして普遍的文法を構築するなどというのは、おかしいという気がしてならない。金谷氏が中動態の本質の探究にあたっては、欧米の言語学者、A.メイエ、O.イェスペルセン、E.バンヴェニストや日本の文法学者、細江逸記の所説を検討している。彼が評価するE.バンヴェニストは、古典ギリシャ語とサンスクリットには受動相(態)はまだなく、能動相(態)と中動相(態)が対立していたとし、能動相を外相、中動相を内相と呼ぶ。能動態の動詞は、その行為が主語に発して他に向かう。中動態の動詞では、行為、状態は主語から他に向かわない。行為、状態の内部に主語がある。彼は、能動態と中動態を、動詞が外で働くか、内で働くかで区別したことは画期的であるが、まだ主語にこだわっていて、中動態動詞を主語と結びつけてしまった。一方、日本の文法学者細江逸記は、バンヴェニストより40年近く前の1928年に、印欧語には本来「受身、受動相」はなく、あったのは能動相と中動相の対立であり、中動相は日本語の助動詞「る・らる」と基本的に同じで、反照(再帰)、受動、自動の機能を持つ、と主張した。さらに「自然の勢い」が中動態の意味の根底にあるとする。

 金谷氏はこれらの所説、とくにバンヴェニストと細江をベースに古典語には主語がなかったという事実を重ねて、先に紹介した、中動態は「印欧語における無主語文で、機能は「行為者の不在、自然の勢いの表現」としたのである。

 ここで中動態の特色を視覚的に分かりやすくするために他の態や紛らわしい再帰形との比較を図示してみた。矢印は動作、力の方向を表す。中動態で主語と動詞が同一線上にないのは、主語は状況の変化が起こる場所を示すのみであり、動詞の主語ではない、つまりS-Vではないことを示している。「行為者の不在、自然の勢いの表現」がうまくイメージ化されているか、自信はない。