LA VERDA GEMO

長いエスぺランティスト人生のあれやこれや その4

その3

Sanjo

  1977年末に結婚し、千葉市で新生活を始めたが、通勤にとても時間がかかることから、1年足らずで東京荒川区の南千住に転居した。池袋エスペラント会に通うにもとても便利で、その3に書いたように、外国人エスぺランティストへの宿泊提供も何度かした。

 ところが、転居後ほどなくして尚志が体調を崩し、入院することになったのだが、運よく池袋エスペラント会の仲間が働いている永寿病院(KOVIM-19が流行った最初の頃、院内クラスターで有名になった)が近くだったので、そこに入院した。その後も2,3度入院することになったのだが、病院に仲間がいるということで、何となく安心できた。エスペラント界は決して大きくはないが、いろんなところにいろんな人材がいて、何かのときには心強い。あらゆる職業の仲間がいると言っても過言ではないかもしれない。

 この頃、エスペラント全国合宿がさかんに行われ、焼津青少年の家での合宿は参加者が100人以上にもなる大きなイベントだった。私は結婚直後に一度参加したきりだが、若い参加者がたくさんいて、とても楽しく有意義な学習の場でもあったようだ。今ではちょっと想像できないかもしれないが。

 1982年3月に長女が生まれた。南千住は便利ではあったが、子育てにはあまり環境がよくないと思い、1983年夏に埼玉県の志木市に転居した。1984年2月には長男も誕生したので、それ以降は子育てに追われる日々となり、池袋エスペラント会に参加することはなくなったが、エスペラントを止めたわけではなかった。JEI会員は続けていたが、機関誌を読むヒマはなかった。

 1985年は、国連が定めた「国際婦人年」(1975年)が拡大されて10年目にあたり、ケニアのナイロビで世界女性会議が開催された。女性の地位向上を目指して国連が設けた「国際婦人年」とエスペラントに直接の関係はない。しかし、この会議に志木のお隣の新座市の女性職員が参加したことから、この地域でのエスペラント活動が始まった。なぜエスペラントだったのかは残念ながら聞く機会はなかったのだが、その女性職員が、働く女性も参加できるようにと公民館で夜の講座をいくつか設けた中の1つがエスペラント入門講座だった。講師をどなたにお願いするか、今となっては推測の域を出ないが、もしかしたらJEIに相談したのかもしれない。講師は梅田節子さんだった。入門講座の講師としてはうってつけだった。講座を提案した職員も一緒にエスペラントを学んだという。この講座終了後、エスペラントを続けたいという人が集まって、新座市の野火止公民館に「ステリードイStelidoj」というグループができた。

 私は私で同じ頃、住んでいた志木ニュータウンの集会所で小規模な「エスペラント展」を開いたところ、エスペラントをやってみたいという近所の女性が現れ、3,4人で学習会を始めた。グループ名を「grupo ‘88」とつけて、我が家で毎週のようにおしゃべり+エスペラント学習を楽しんだ。Stelidojの例会には参加できなかったが、イベントへのお誘いには参加したり、梅田さんを通じて、外国人エスぺランティストの受入れは続けていた。この頃受け入れたエスぺランティストで思い出に残っているのは、Hortensioと呼ばれた韓国のチェ・ユンヒさんとか、父がアメリカ人で母が韓国人の、当時天才少女といわれた12歳くらいのサラ・ジョーンズ。彼女は、バイオリンの演奏でもすでに一流で、中国科学院への招待旅行の途中に日本に寄ったと記憶している。他にも、ソ連(当時)の言語学者、世界一周旅行中の フランス人夫妻、スウェーデンの若者カップルなど、たくさんのエスぺランティストを迎えたお陰で、会話力はキープすることができた。(続く)