佐々木照央さんの思い出

石川智恵子

佐々木さんのエスペラント界へのデビューは2002年のことだという。私が佐々木さんと初めてお会いしたのがいつだったか、よく覚えていない。彼はおそらくすぐに埼玉エスペラント会に入会したのだろうと思うが、私自身はまだ埼玉エス会の会員ではなかった。

佐々木さんが埼玉大学でエスペラントの授業を正規の授業として最初に行った2005年に私は授業を見させてもらっている。2007年にあった東大でのエスペラント授業も見せていただいたが、これは私が2002年末からJEI理事となって研究教育部長をしていたので、その関連で声をかけていただいたのだと思う。東工大でも佐々木さんはエスペラントを教えたが、実現に至るには彼の同業仲間(?)への働きかけがあったのだろうと思うし、きっと彼の人徳もあったのではないかと思われる。

2007年は、横浜で世界エスペラント大会があり、この後私は埼玉エスペラント会に入ったようだ。例会の他に、ハルペン・ジャックさんや斎藤義典さんなどとエスペラントで話す会をやっていたのだが、佐々木さんもときどき参加された。佐々木さんとハルペンさんのふたりのpoliglotoを使わない手はない、と2008年に「どうやって外国語を効果的に学ぶか」という小講演会を開催したのだが、佐々木さんは喜んで自分の体験から外国語を学ぶ楽しさと効果を市民向けに話してくれた。

大学教員として大学でのエスペラント授業を実現させたことは、それほど驚くことではない。私が一番佐々木さんに感謝しているのは、2010年に埼玉大学教育学部付属中学校で、総合学習の一環である「国際理解講座」にエスペラント授業を実現させてくれたことだ。佐々木さんの同僚であるこの中学校の校長先生が、定年退職を目前にして、佐々木さんの提案を受け入れてくれた結果だという。2学期の8回だけの授業であったが、佐々木さんは私を講師として推薦してくれた。トライアルデーには、ハルペンさん、アレクサンドラさん、サリフ・ザキロフさんなどと共に佐々木さんも来校してくれた。30人の生徒たちには好評だったのだが、担当教員(英語教師)はあまり積極的でなかったのが残念だった。

埼玉大学を退職後に、中国の棗庄学院でも6年間教えたが、ほんとうに教えることが好きだったようだ。そして、中国の学生たちをいつも誉めていた。自分が日本語を教えた学生たちが、2年目にはもう東野圭吾の小説を読めるんですよ、とうれしそうに話していたことを覚えている。心の中では、「ホントですか~?」と思いながらも、佐々木さんのうれしそうな顔を見ていると、そんなことは言えなかった。

私生活では、いろいろあったのだろう。再婚後に生まれた娘さんをとてもかわいがっていた。彼女に教えると言って、小学生向けのエスペラント教材も作ったが、これから本格的に教えようと思った頃から体調を崩されたので、もしかしたら使わずじまいになったかもしれない。2021年に小坂賞を受賞され、日本大会でオンラインで受賞記念講演をしていただいた。そのとき画面に小学生の娘さんがちょこっと登場したが、佐々木さんは気にもしていなかった。こんな小さな子を残して亡くなられたことを気の毒に思う。

中国から戻ってからは、私よりも尚志との付き合いが多くなった。尚志も別のところに書いたが、佐々木さんといえば、ワインとエスカルゴ。2005年に埼玉大学で授業を見せていただいた後に行ったサイゼリアでもエスカルゴだった。佐々木さんといえばエスカルゴ。もうご一緒することがないと思うと寂しい。

佐々木さんの笑顔を忘れない

大西道子

“エスペラント”に出会って、それまで全くご縁のなかった人たちに出会う機会が増えた。大会や合宿で何度かお会いするうちに、親しい間柄になったり、また一方的に憧れるような人が現れたりする。私にとって佐々木さんは後者。お見かけしたときは近くまで行ってご挨拶するのが楽しみだった。2012年に箱根で開催された関東連盟の大会の折にも、会場になった旅館のロビーで声をおかけした。「お嬢さんの誕生おめでとうございます!」と。「ありがとう!」と、本当に嬉しそうな笑顔で応えてくださった。あの独特の眉毛の、温かい優しい笑顔で。

もう一つ、私の記憶を書きたい。

どこの大会でだったかセミナーでだったか定かではないが、私は一度佐々木先生の講習を受けたことがある。内容は、外国語(特にロシア語)の翻訳をするとき、その内容を正しく理解して表現しなければならない。そのためにはエスペラントの存在は欠かすことができない、といったようなお話だったと思う。

ザメンホフの訳した“Fabeloj de Andersen”に話が及んだ時、「みなさんはアンデルセンがお好きですか?私はこの本の中で深く印象に残ったのは“ユダヤの少女”です。」と言われた。自分のことになるが、私はたまたまそれを読んでいた。エスペラントに出会い、初めて所属した西日暮里エスペラントクラブでこの本を目にした。子供の頃から好きだったアンデルセン童話。しかも日本ではまだ翻訳出版さていないものも含め、沢山(106編)の作品が収められているとのこと。無謀にも全くの初心者がその分厚い本を購入。辞書を頼りに少しずつ数年がかりで取り組んだ。解らない部分は、素通りしたり勝手な解釈をしながらではあったが。そんなことの後だったので、とても興味深くお話を聞いた。

佐々木先生は「この短い物語“ユダヤの少女”(4頁)には作者の、人間の差別に対する強い憤りと小さきもの弱きものへの慈しみの心が込められています。━ ekstere apud la muro ━ 物語の最終部のこの文節が大きな意味を持っているのです。」と言われた。私には、きちんと理解できていなかった。そして胸にストンと落ちた。作者と先生がぴたりと重なって見えた瞬間だった。 

以後、何回か読み返している。その都度あの日の授業が甦る。あの温かい笑顔と共に。

心からご冥福をお祈りいたします。

2023年4月

偉大な先人

金子陽子

私が埼玉エスペラント会に入会したのは2016年12月で、そのころは佐々木さんは例会に出席することもなくなっていたので、私が実際に佐々木さんにお会いしたのはほんの数回しかも挨拶以上の言葉を交わしたことは1度しかない。しかし私は佐々木さんと不思議に縁がある。まず私は埼玉大学教養学部出身である。私が在籍していたときも佐々木さんは埼玉大学教養学部で教鞭をとられていたはずだが、残念ながら私はロシア語に縁がなく存じ上げる機会もなかった。そして私が初めて埼玉エスペラントの例会を訪れた時、そこで話題になったのが佐々木さんが『墨子』を出版したことで、石川智恵子さんにその本を見せていただいのを覚えてる。

唯一会話らしいものをしたのは2018年11月、上智大学で行われた講演「エスペラント詩人ウィリアム・オールドの世界」の後、聴講していたのエスペランティストたちが沖縄料理店に繰り出し、私も誘っていただいて近くに座らせていただいたときだ。ほとんどベテランの方たちだったが佐々木先さん含め皆さん気さくで、楽しい時間を過ごした。私は佐々木さんが中国語関係の教授だと勘違いして間抜けな発言をして恥ずかしかったことを覚えているが、これも佐々木さんの守備範囲の広さのせいだと今は思う。

第106回の埼玉で行われた日本大会では私はLKKとして忙しく佐々木さんの講演は聴けなかったが、大会の後の2019年10月ミカエル・ブロンシュテインがJEIで講演し佐々木さんの通訳を聞くことができ、今思うと貴重な体験だった。

大会の後、佐々木さんは講演の資料(『速修日本語』と『日本語 動詞、形容詞変化表(佐佐木式)』)をインターネットで公開する場所を探していて石川さんに相談し、埼玉エスペラント会のホームページを置いているサーバーに置くことになり、ホームページを管理していた私がその作業をした。また10年以上前に、当時埼玉エスペラント会のホームページを管理していた田中滋さんが、やはり佐々木さんに頼まれて今まで書いた記事や書籍のデータをホームページ内に置いていたが、サイトの引っ越しやリニューアルでリンクが切れたりしていたので、それも整理し先の速習日本語の資料も含めて独立したサイトにした。日中エス語そしてスペイン語の雑誌記事もありの多言語資料を置くサイトを何語で作るのか迷って結局タイトルは「佐々木照央作品」という中国語っぽいタイトルにした。これだけの資料を置いているのだから佐々木照央がどんな研究者なのか分かった方が良い。私はプロフィールを作っていただくようお願いして、わかりました、とお返事をいただいた。その後「おくのほそ道」、「孟子」の原稿はいただいたが、プロフィールは結局来なかった。佐々木さんは常に新しい仕事に邁進していて、過去を振り返って自分のプロフィールをまとめる時間も惜しかったのかもしれない。佐々木さんがご自分の著作を惜しみなく埼玉エスペラント会に預けてくれたおかげで、ネットで「佐々木照央」を検索すると会のホームページが上位に表示され、埼玉エスペラント会のとしてはありがたいかぎりである。佐々木さんを顕彰するウェブサイトの一つとして今後も少しずつでも充実させていきたい。

とはいえ私はホームページにある佐々木さんの著作を一部しか読めないで死ぬだろう。佐々木さんの著作は生き続ける。

佐々木さんを悼む

石川尚志

佐々木照央さんが逝ってしまった。私より4歳も若いのに。最近の私にとって最も親しいエスペランティストだった。『危険な言語』を一緒に訳していたから連絡を取り合っていた。

佐々木さんと言えば、サイゼリア。そこでの赤ワインとエスカルゴである。彼の最寄りの駅は武蔵野線の西浦和、私は東上線の柳瀬川。彼は隣の北朝霞、私は二つめの朝霞台で駅が繋がっているので、そこで落ち合いサイゼリアに繰り込む。一杯百円の赤ワイン。二人共年金生活者なので贅沢はできない。ワインはまあまあ、グラスがプラスチックなのが興ざめだが、安いのだからしかたない。昨年の3月16日にそこでワインを飲みつつ二日後の出版社訪問の打ち合わせをした。もちろん話題は2月のロシアによるウクライナ侵攻に及んだ。彼はロシア語の専門家、ロシア思想史で社会学博士となった人であり、ロシアもウクライナも度々訪問している。もちろん、ロシアの侵略に対する批判は厳しかったが、ウクライナのマイダン革命の経過などに対しても厳しい見方を示していた。二日後の都内の出版社訪問は実務的な話で終始、あっさりと別れた。それが実際に会った最後である。

今、佐々木さんとのLINEのやりとりを点検していて、2021年の12月2日に受信した内容に「本日ガンマナイフ手術終了、脳下垂体腫瘍を切除。医術の進歩に驚嘆」とあるのに気づいた。すでに2021年の秋ごろから眼の異常を訴えていたが眼科の範囲ではなく、脳神経科あるいは脳外科の対象となっていたのだった。3月までは体の不調を訴えることもあまりなかったが、4月になってLINEのビデオ通話に左眼に眼帯をして現れるようになった。それからの佐々木さんは、数度のガンマナイフ手術、経鼻手術、開頭手術を重ねたが効果なく、今年の2月に亡くなられたわけである。

昨年の晩秋までに佐々木さんは『危険な言語』の自分の分担を終え、一方の眼だけで痛みに耐えつつ、いろいろな仕事に打ち込んでいた。10月8日のLINEでは、「小学館からのエロシェンコ著作集は出版の最終段階、荘子ももうすぐJEIに到着。どちらか実現したらいつものようにワインで乾杯したいですね」とあった。だが、それももうかなわない。

3月2日の葬儀には密葬とはいえ、関東連盟の山野さん、ロンド・コルノの菊島さんと共に参列してお別れすることができた。佐々木さんの残されたものは多大である。墨子、荘子、荀子はエスペラント初訳であり、彼は日・中・英の訳、評釈を参照、批判的に吟味して自己の訳を完成した。私に残された多くはない時間を佐々木さんに献杯しつつ、中国古典の未読に充てたい。